おまじない暴力





哲学は驚きに始まる。


紀元前の、遠い国に生まれた人が言った言葉だ。

身の回りの出来事の中に、自分の理解の範囲が及ばないことを発見したとき、ひとはびっくりする。

あ、もしかして、俺っていつか死ぬの?

とか。

その困惑、驚異、恐れ、そこから哲学は始まってしまう。

わたしは小さい頃から、この世界に驚きっぱなしで、SFとか魔法の世界に全くといいほど関心を示さなかった。超越的な世界より前に、この世界がめちゃくちゃで、ふしぎで、不条理で、おそろしかったからだ。


いつか自分に届くかも知れない魔法学校入学許可の手紙を待ち焦がれるよりも、妖精やトロールのいる世界で戯れるよりも、普通の顔してパソコンを叩く隣のひとや、近所の真っ当なふりをしてメッセージを発信する看板、日常の中にある一瞬のひずみや齟齬に、驚き圧倒されることの方がずっとずっと興奮した。

おどろきの対象は、一度意識してしまうと、もう二度と以前の関係には戻れない。 「口の中に舌があるということ」にびっくりしてしまった結果、舌をどの位置におさめたらいいのか分からず、絶えず舌のことを考えなくてはならない人生になるように。


***


学部生のころ、ある塾で事務のバイトをしていた。 その日は妙に運が悪くて、自分の望む曜日に適する講座がないとか、渡したはずのプリントを貰っていないとか、授業料を払いたくないとかの理由で怒り狂っている保護者の電話を三本も受けてしまった。

電話の口調はどれも猛々しくて、襲いかかる言葉の暴力に頭がくらくらする。 直接触れていないのに、心がぼこぼこに殴られている。心が死んでいく。 眩暈がして思わず彼女たちの息子が受ける予定の「基礎クラス」を「クソクラス」などと噛んでしまう。

死に向かうようにして帰路につくと、母親がどうしたのと聞いてくれる。 三人に言葉の暴力をうけたよ、とつぶやく。

それを聞くと、母親は間髪入れずわたしの頭を三発ひっぱたいて「これで平気よ」と言った。

どゆこと?

見えない暴力を、見える暴力によってチャラにする試み?

ああ、母よ。


ああ。




母よ。


ひっぱたかれた頭はじわりと熱く、わたしは「生きているんだなあ」と思った。

あれはあれで哲学が始まりそうな出来事ではあったが、母はおそらく「邪気を払う」ようなイメージで頭をひっぱたいてくれたのだろう。

だが今となっては「これで平気よ」台詞の方が、興味深いものとして立ち上がってくる。


死や、死に近い暴力を通過したわたしは確かに「平気」になった。

その場でもそうだし、その後のバイトでもわたしは電話がうまくなった。 担当者に替わります、と言って長時間保留にし、怒りを静める方法も身につけた。


でも、死や暴力によって逆説的に「生きている」ことを自覚するなんて、よく聞く話だけど、よく考えれば変な感じだ。


なぜわたしたちは、ストレートにいま「生きている」ことを十全に感じることができないのだろう。

どこまでひねくれた動物なんだろう。

わたしたちは、生きると死ぬと、癒やしと暴力が、靴の底にひっついたガムみたいに表裏一体になっている世界を生きている。ガムを見て綺麗な靴の底を思い描き、綺麗な靴の底を見て除去したガムを想起する。


生きるをよく見ると、死ぬを見てしまう。

死ぬをまなざすと、たちまち生きるがよみがえる。


以前、小学生たちと毛玉の大きめのポンポンを作ったとき。 最後の仕上げに、共にボールを作っていた眼鏡の真面目な後輩が、慣れた手つきで毛糸をくるくるとまとめ、しっかりと固定したあとに、輪っかになった部分にはさみをいれようとした。


輪っかの束をジャッキンと寸断して少し整えれば、ポンポンは完成する。

せっかくみんなで輪っかにした毛玉をザク、ザク、と空虚な音で切断する様子に、子どもたちはウヒャー!とかギャー!など騒いで悶えている。


子どもたちは口々に「せんせい!殺してる!」「殺さないで!」と叫び始めた。



後輩はザク、とさらにはさみを進めると「これから生まれるんだよ」とつぶやいた。