さみしくてごめん



好きなことはたくさんあるが、突然の雨にみんなで降られることが特に好きだ。


ワーッ降ってきたぞ、とサラリーマンが二人組が走り出す。自転車に乗った若者は一気に加速する。あっちでは、駅に逃げ込む女子高生たち。向こうでは、おじさんが鞄を頭の上に掲げて銀行へ走る。

どんどん強くなる雨の中で、わたしはにこにこしながらみんなを見ている。

全く知らないあなたとの間に、偶然な関係性が生まれたことに、昂奮しているのだ。


しばらく立ち尽くしていると、人々は雨に慣れてしまって、各々の感情を徐々に見せ始める。

天気予報に悪態をついたり、お互いを笑いあったり。

準備のいい人は折りたたみ傘を広げて歩き始める。


つかの間の夢は終わってしまった。


わたしは歩き始める。





誰かと、不意に何かを共有できる瞬間に、わたしの心は震える。

普段、ひとと何かを決定的に共有することはほとんど不可能だからだ。

たとえば、感情。

ひとの気持ちに心を寄せることはできても、相手の気持ちを完璧に「わかる」なんてことはかなわない。

そのくせ、大変な苦労をした人に、無責任にも感情移入してわたしはすぐ泣いてしまう。ああ、わたしの無神経な感受性。 でもこんなに誰かと完璧に何かを分かち合いたいと思うなんて、さみしがりなのだろうか。



小学校や高校に「哲学教室」の授業をしにいくことがある。


生徒たちから、哲学したいこと、考えたいことを出してもらって、それについてみんなで考える。こんなことを繰り返して、もう6年くらいになる。

「さみしいとは何か」。


あるカトリックの女子高でこのテーマが決まった。


10人くらいの女の子たちと、教室なんか抜け出そうと誘って、重い聖堂のドアを開けて、誰もいない静かな場所でひみつの哲学を始める。

ひとりぼっちよりも大勢の中にいるときの方が、さみしさを感じる、とある子が言う。たとえば大勢で楽しくバーベキューしてるとき。ふとバーベキューで使われた油が、ぽとりと地面にしみ込んでいるのをみて、さみしくなる。

別の子は、さみしさはつらい、いやだ、できるだけ紛らわせていたい!と強く主張する。彼女は夜、友達にライン電話をかけてさみしさを忘れようとするそうだ。



いや、いや、とにかくいやなの!さみしいはいや!



わざと子どもみたいにじたばたするその子を、みんなは笑って同意する。

じゃあ、さみしいっていやな感情?あってほしくないもの? みんなに聞いてみる。


するとまた別の子が、ううん、わたしは桜をみたとき、ふとさみしいって思うけど、その感情はけっこうすきです、と言う。

えー、すごーい。いやでもわかるー。 きゃあきゃあ言いながら、彼女たちは楽しそうに考えている。

すると、今度はショートカットの子が、手を挙げて話し出した。

彼女いわく、うれしいとか楽しいとか、そういう気持ちは友達と共有できるそうだ。クラスが優勝してみんなでうれしい、誰かが喜んでいてうれしい。大切な友達がうれしくて幸せ。



うんうん、と他の子たちも嬉しそうに彼女の意見にうなずいている。仲良しなクラスなのだろう。

でも、と彼女は言葉を続ける。



「さみしさだけは、誰とも共有できないんです」。



他の子たちは、黙って聞いている。



「だからさみしさとは、決して共有できない、わたしだけのもの」。



わたしはそれを大切にしたい、と彼女は凛とした横顔で言った。





むかし、ある人に「きみと一緒にいるのに、さみしくてごめん」と言われたことがある。 わたしは「きみと一緒にいるから」の間違いじゃないか、と思いながらうつむいてその言葉を聞いていた。


分かり合いたい、と強烈に思えば思うほど、あなたとの距離は信じられないほど濃厚になる。その濃厚さに身体を焼き尽くされて嘆き暮らすのも一つの人生だ。


でも、彼女のようにそのさみしさを、誰にも奪えないわたしだけのものとして生きることもできる。

そんな中でこそ、そこにいる全員が信じられないほどにさみしく、同時にあることを決定的に共有している瞬間がある。


全員がばらばらで、全員がひとりぼっちで、そして、全員でそれを共有できるときがある。



サルトルの作品に『恭しき娼婦』という戯曲がある。

ラストシーンで、無学で白人男性に丸め込まれてしまう哀れな娼婦リッジ―は、同じく無学で、白人にむごたらしく利用されるだけの見知らぬ黒人と身を寄せ合う。


もうすぐ、差別主義者の、残忍で自分勝手で傲慢な白人男が、彼女たちを見つけに来るのだ。

リッジ―は混乱しながらつぶやく。


「降りてきたわ。ああ、ねえ?あたしたちだけかしら?あたしたち、まるでみなしごみたいね。」

戯曲はここで終わる。

リッジ―の「みなしご」という「ひとりぼっち」の比喩であるこの言葉の主語が、複数形の「あたしたち」であることに、いつも気になってしまう。


あたしたちひとりぼっちね、という彼女のつぶやきは、決して同じく哀れな黒人と、心あたたかな連帯を感じているわけではない。二人はあまりにばらばらで、それぞれ孤独なのだから。


それでも、「あたし、ひとりぼっちだわ」という言葉で終わらせなかったサルトルに、立ち止まらざるを得ない。

それはきっと、共感でも共有でもなくて、「分有」と言うべきものなのだろう。 ある状況を、決定的に分かち持ってしまうということなのだろう。

わたしたちは、わたしだけの「さみしさ」を持っているという状況を、誰かと分かち持つことができる。

ひどくさみしいことだけが、さみしくないことを可能にするなんて、変な感じだ。


満員電車に乗っているとき。カフェで作業をしているとき。あなたと座っているとき。 隣のひとに話しかけてみようか。


わたしたち、まるでみなしごみたいですね。