
哲学といえば、「なぜ人は生きるのか」とか「自由とは何か」「友だちは必要か」などのように、問いの形で表現されることが多い。
だが「哲学モメント」(日常の中で哲学が到来してしまう瞬間)は、綺麗な問いの形になる前の段階で、経験されることがほとんどのように思う。
ふと目に入った「手」がなんだか奇妙に感じる。あれ、おかしいな、と心がざわつく。しばらくしてようやく「手ってこんな形だったっけ」と思い始め、自分が身体を持っているということが、異常なことのように思えてくる。自分が見えているように、他者も見えているのか、疑わしくなり、認識とは何か、身体とは何か、生とは何か、問いが連なっていく。
問いをしっかりと立てることは重要だ。考える対象が明確になるし、自分が何をテーマにしているのか自覚することができる。何よりも、問いを適切に立てることで、多くの人と議論の機会を持つことができる。
だが、問いになる前の問い、問いらしい問いではない問いが、わたしは好きだ。
「哲学」の授業をしたりイベントをすると、必ず自分の問いを書いてもらう。まとまっていなくてもいいから、とにかく、あなたの哲学モメントを教えて欲しいと思う。
ある小学校で哲学の授業をしたときも「今後哲学してみたいテーマ」を書いてもらった。子どもたちは真剣に鉛筆で書き込み、わたしに手渡してくれる。
ある少年が渡してくれた紙にはこう書いてあった。
「うちゅうはどこ。」
「宇宙に果てはあるのか?」とか「宇宙は何でできている?」「宇宙は誰が作ったんだろう?」のような、きれいな問いではない。
しかしこれはまぎれもなく、彼の哲学モメントである。
たしかに、どこにあるんだろう宇宙は。
ここは宇宙ですか?
宇宙はどこまでですか?わたしは宇宙ですか?
あなたは宇宙ですか?
デザイナーの友だちがいた。
いわゆるブラックなデザイン事務所で働いていた彼女は、身も心もぼろぼろだった。
ようやく会えても、喫茶店で珈琲一杯を一緒に飲むのがやっとで、彼女は忙しいんだよね、と曖昧に微笑んで、またそそくさと仕事に戻っていった。
別の友だちと3人で会う約束をしたある休日、やはり彼女は仕事で遅れてきた。ふらふらとこちらに歩いてきて、革張りの安っぽいソファにすとんと座り、仕事が立て込んでいて、と言った。
もう一人の友だちと、大変だね、何があったの、どれだけ忙しいの、と心配の声をかける。彼女は、遅い昼食を食べながら、わたしたちに疲弊の理由をしてくれる。
この業界はこんな風に忙しくて、この仕事はこんな感じで、などひと通り話をすると、彼女はふと目線を下に落として、こう言った。
「そうなのか、これが そうなのか」
どきりとする。
彼女の目に、わたしたちはうつっていない。
きょとんとした顔で、一点を見つめている。
1つめの「そうなのか」は、現状の認識と諦観を帯びていた。
しかし、2つめの「そうなのか」は、確かに「問い」だった。
あっ哲学モメントだ、と思った。
彼女はじっと黙り込んで、動かない。
問いが彼女を連れて行ってしまったのだ。
わたしたちは彼女の哲学モメントを、息を呑んで目撃しつづけるしかない。
ああ月夜、死ぬまで何本あったか〜い缶コーヒーを買うのかおれは(瀧音幸司)
この短歌が好きだ。
ぐにょりぐにょりと形をとらずうごめいていたものが、ふと「問い」として吐露された、ひりつきがある。
この短歌を「しっかりした問い」として受け止めるならば、人の平均缶コーヒー購入回数を調べればいい。
だがもちろん、この問いに対する「答え」はそんなことではない。
これは、彼の、彼だけのアクチュアリティの中での、なんとか絞り出した呼びかけなのだ。
だからこそ、この詩はうつくしい。
そうなのか。これが、そうなのか。
この言葉もまた、詩である。
あれから数年経って、彼女はいまロンドンにいる。
英語が全く話せなかった彼女が、幸福な職場で英語を使いこなし、うつくしい線を引きつづけている。
問いは、彼女をとうとうロンドンにまで連れて行ってしまったようだ。
ロンドン。雨のロンドン。
そうですかきれいでしたかわたくしは小鳥を売ってくらしています(東直子)