ばかものよとかうざいんだけど




水曜日


メールしすぎて多少の誤変換を気にしなくなってきた。「ありがとうございますう。」とか。「よろしくお願い遺体します」とか。色気と恐怖。


わたしにとってはたくさんのメールのうちの一通だが、相手にとっては唯一の一通なので、開き直っている場合ではない。


誤変換といえば大昔、大学の先生に「わかりました。永井玲衣」と送るところを「わかりました。永井玲殺されるぞ」と書いて送信してしまったことがある。「玲衣」の「衣」を「ころも」と打ったら「殺されるぞ」がガラケーの予測変換で出てしまい、そのまま焦って送ってしまったのだ。


怖かっただろうな、先生。


あと同期から、怖い先生に謝罪のメールを送るから文面を見て欲しいと言われ、チェックしてあげたことがあった。いいんじゃない、送れば、と返信してしばらくして、彼が大慌てで「やばい」と返してきた。


謝罪メールの末尾に「これでええ?」とわたし向けに書いたメッセージを、そのまま削除せず怖い先生に送ったらしい。



  この度は大変申し訳ありませんでした。引き続きどうぞよろしくお願いいたします。これでええ?



喧嘩売ってる。




金曜日


気分転換に散歩でもするかな、と家を出て、気がついたら4時間半ほど経っていた。散歩はいつも念入りにしてしまう。誰かがいないとすぐに常軌を逸するので、本当に他者って必要だなと思う。


小手川さんの『現実を解きほぐすための哲学』を読む。いい本。




土曜日


知り合いの先生が、メールで「小生のパワーポイント」と書いていて、しばらく笑ってしまった。いにしえとテクノロジーが奇妙な仕方で並列されていて、詩っぽい。「ごPDF化」とか「おデバイス」も好き。そういえば、奇妙な言葉への愛着について、以前連載にも書いた。


ブラタモリを見ていたら、温厚そうな教授がタモリに「野鳥も海を渡ってこられるんです」と説明していた。野鳥に敬語。




日曜日


子どもとの哲学は、子どものために哲学をするのか、哲学のために子どもとするのか、どちらなのかについて考えている。教育の文脈で考えるならばそれはやっぱり前者になるんだが、哲学のために子どもと哲学をするんだ、という主張もなかなか面白い。


あと、哲学対話や哲学カフェで一生懸命考えたことについて「それカントも同じこと言ってるんだよ」と誰かに言ってもらって、はたして人は嬉しいのか問題。


嬉しいときもあればむかつくときもあるし、知らんがなって思うときもあるな。


でもやっぱり、カントと同じだって言われるより、カントになんて言ってやろうかね、って一緒に考えてもらう方が嬉しいかも。いや、カントと一緒にも考えたい。無理だけど。


修論書いてるとき『道徳形而上学の基礎づけ』読みながら、カントにどうしても聞きたいことありすぎて、テクストに向かって「ねえ…何か言ってよ…」ってうつぶせたことがあった。乙女か。


修論はひとを乙女にしてしまうので気をつけてください。




月曜日


スタバのwifi、突然予告なくインターネットを切断したかと思うと、次の瞬間に小窓で「success.」という文字だけを出してくる。ビンタした後にすぐに抱きしめてくるひとみたい。


カフェインが苦手なくせにコーヒーが好きなので、デカフェをよく頼むのだが、店員さんがすごく嫌がっているのを感じる。「お時間いただきますがよろしいですか?」と聞いてくれる人もいるが、人によっては「5分ほどかかりますが」になり「10分以上かかりますが」に、そして最近ではついに「大変お時間かかってしまいます」と断言された。


「それでもなお、デカフェを下さい」と言う勇気はなく、普通のコーヒーを頼んでしまった。胃が痛い。


『キレイならいいのか』の書評を書く。




日曜日


D2021という得体の知れないフェスをやるので、Choose Life Projectでその予告とイベントとして「ごみと資本主義」をテーマに対話した。司会だったので、wifiが死んだらどうしようということばかり考えていた。


『分解の哲学』を読み直す。面白い。




水曜日


はじめてお仕事をするお相手に「noteの日記を読みました」と言われて気まずい。読むなら連載や、メディア記事にしてほしい。あっちが本当のわたしです。


生徒たちが「実は先生の記事読んでます」と告白してくれるのもうれしいが恥ずかしい。「隣のおじさんのザーサイを食べる話」が人気。何も知らない生徒が横から何それ〜とか言ってるのも恥ずかしい。人前では真面目な記事を褒めて欲しい。わがまま。


そんなことより、宇宙工学研究者の久保勇貴さんの連載の新作だ。本当に本当に本当に本当に本当に、いい。何度も読んで、何度も泣いている。特に生徒には、わたしの記事よりもこっちを読んでほしい。


【エッセイ・宇宙を泳ぐひと】第6回 フィボナッチ、鹿児島の夏


衝撃を受けた有名な作品は数多くあるが、身近な表現者で、作品をひと目みた瞬間にあっこれヤバいなとわかって、そのまま読むのを止められなくなったひとが二人いる。そのうちの一人は久保さんで、もう一人は山戸結希さんだった。彼女は、はじめて入った哲学研究会にいた先輩で、当時からバリバリにヤバかった。映画を撮るから協力して欲しいということで、ほんの少しだけエキストラで出た。もらった台本は、文字なのにすべてが生きているみたいに見えて、異様で、凄まじくて、圧倒された。


彼女はそれからあっという間に手の届かないものすごい表現者になった。久保さんもすぐにそうなるだろう。


すごいものをすごいと言うことが好きだ。好きなものはみんなに読んでほしい。




土曜日


zoomで哲学対話をしていたら、ファシリテーターをしていたひと(先輩)がいきなり固まってしまった。「アパートが停電になった」というメッセージが来る。そんな奇跡あるのか。


論文をいくつかと、和山やまを読む。




金曜日


ある女子校に授業をしに行く。問いについて真剣に考えてくれる。それだけで本当にうれしい。「先生はどう思いますか?」と聞いてくれるのもうれしい。わたしは先生に自分の意見を伝えるのに精一杯で、先生に考えを求めたことなんてなかった。他者の声を聞こうとするその姿勢がうつくしい。


ふと、友だちが「どっちがトイレ早いか競争しようよ!」と休み時間にいきなり誘ってきたことを思い出す。小学生じゃなくて普通に高3とかだった。なんでだよとか文句言いながら勝った気がする。


女子校のトイレは、香水くさい女子たちが集団で鏡の前にたむろし、リップをぬりぬりして誰かの悪口を言っている、などという情景は男性の妄想である。現実は、どっちがトイレが早いか競争してます。




土曜日


生徒にリアペのコメントを返す。


高3のとき、学年だよりか何かで、終業式に先生たちが「卒業に向けて贈る言葉」みたいなのを書いてくれたことがあった。一人につき大きめの枠が与えられていて、いろんな先生たちの長文のメッセージが手書きで印刷されている。


配布されたプリントを席で読んでいると、国語の先生が茨木のり子の「自分の感受性くらい」という詩を引用しているのが目に入った。国語の先生はあまり語らずにいろいろな意味を込めたのだろう。「自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ」という有名な最後のフレーズだけが、枠の中いっぱいに書かれている。


隣に座っていた友だちがそれを見て「ばかものよとかうざいんだけど」と言っていた。


たまに思い出して笑ってしまう。そりゃ「ばかものよ」とかいきなり言われたら腹立つよな。


伝わらないって、悲劇なんだけど面白い。友だちにとってはその先生は一生、突然終業式に罵倒してきた変な人なのだ。




火曜日


「突然終業式」という文字、たわしみたいにゴワゴワしている。触ったらじょりじょりってなりそう。


  「美」が虫にみえるのことをユミちゃんとミナコの前で言ってはだめね


穂村弘さんの短歌を思い出す。本当にすごいなこのひとは。これを読んでから、虫にしか見えなくなった。


  きがくるうまえにからだをつかってね かよっていたよあてねふらんせ


この短歌が好きだと穂村さんに言ったら、ああこれは実際にこう言ったひとがいたんだよ、と言われてこわかった。


そういえば、雑誌の企画や記事、イベントの企画ごとに、毎回詩人を提案しているけど通ったことがない。「詩人はどうですか」と言うたびに「は?」っていう雰囲気になる。哲学研究者がこの会議にしれっと参加できるなら、詩人もええやん。だめですか。