世界を適切に保存することについて



中学生のとき、店などで目にした店員さんの名札を全て記録するという趣味を持っていた。

たまに母に連れられて乗るタクシーの運転手さんの名前、レジを打ってくれるお姉さんの名前、今回のお掃除はわたくしが担当致しましたカードの名前、全てをガラケーのメモ機能に打ち込み続け、スクロールバーは赤ちゃんの小指の爪より短くなった。

達成感を覚えることなく、わたしは淡々と名前を打ち込み続ける。

ある日、00年代の窮屈な容量では収まりきらないほどのコレクションを見た友人は「キモい」と一言つぶやき、わたしは遺伝子配列のように無数に続く見知らぬ名前の連なりをひっそりと削除した。

友人はわたしを監視人のように思ったのかもしれない。 確かにいま思えば狂気の沙汰である。

だが、10年の時を経てわたしはわたしを弁護したい。

わたしはあらゆるものを保存したかったのだ。

時間が流れていく、それに伴って何か価値あるものが消えていく。 わたしにはそれがどうしても、おそろしかった。

小さい頃に読んだなぞなぞの絵本。 真っ暗闇に女の子たちが座っている。 彼女たちは無表情で、互いの顔さえ見ていない。草も、太陽も、パラソルも、滑り台も、そこにはない。黒塗りの中に二人が座っている。

ぞっとするような挿絵の下に明朝体で「なぞなぞ」が書いてある。

ゆうこさんとえりこさんは すわっている  でも ひとつだけ たっているもの なーんだ?

わたしは震える指でページをめくる。

  こたえ : じかん

こわすぎ。 暗闇で座り込む彼女たちには、よろこびもかなしみもない。 だが、それでも、時間だけは流れてしまう。

時間が流れ、現在が失われるということに対して、わたしたちはどうすることもできない。 ただそのふしぎに震えるだけだ。

でも、なんで消えるということはこんなにもおそろしいんだろう。


ある冬の寒い雨の夜、細い歩道を傘を差して歩いていたら、向かいから男性が歩いてきた。お互い傘を差しているし、狭い道だったのでこのままではすれ違うことができない。どうしようかと思いながら距離を詰めていると、あと3mほどですれ違うくらいの時に、男性が傘を高々と掲げた。

少し傘を上に掲げることはあっても、腕を完全に伸ばしきることはあまりない。それにわたしの身長は147cmと小柄だから、わたしが少し傘を閉じればおそらくすれ違えたはずだ。でも、男性は腕をぴんと伸ばして、わたしとの交差を準備した。




自由の女神のようだった。

わたしはこの光景が、時間の流れと共に消えてしまうことがおそろしかった。 嬉しかったとか、感動したとか、面白かったとか、そういうことよりも先に、この瞬間を「保存しておきたい」と思ったのだった。 そんな欲望に貫かれるとき、わたしはスケジュール帳の端っこや、メモ機能、手の甲にまでその瞬間を急いで書き留めた。覚えているだけでは忘れてしまうからだ。

18世紀の哲学者バークリーは「存在することは知覚されることである」と言った。 だけど、きっと知覚されるだけじゃ足りないのだ。

だって、存在することは記憶されることだから。

記録を試みたメモ帳が家にはたくさんあって、そこには「ワンチャンをワンチャン」とか「もうすぐ三年でした」とか「コーヒーマシーンの軋み、形式主義的な形式主義擁護」とかいう意味不明な言葉が羅列している。 メモ帳を落としたら、どっかの売れない芸人が考えたギャグのネタ帳だと思われそうだ。

でもこれらは保存に失敗している。 せっかく保存したけど、覚えていないからだ。

そんな「保存しておきたい」と思う瞬間を捕まえる天才に、岡野大嗣さんという歌人がいる。

岡野大嗣 | 新鋭短歌シリーズ


ひとりだけ光って見えるワイシャツの父を吐き出す夏の改札


山から見た絶景とか、有名な絵画とか、超絶技巧とか、すばらしいと思うけど「保存しなければ」とはあんまり思わない。 だってきっと、永遠にそれは生き残るから。スマホの小さな容量に、小さなわたしが打ち込まなくても、きっとみんな覚えていられる。だから永遠に持続する。

でも、夏の夕方に、見知らぬ雑踏の中でひとり浮き出て見える父親を改札に発見したとき。それはわたしだけのもので、そしてすぐに消えてしまうものだ。



河川敷が朝にまみれてその朝が電車の中の僕にまで来る 録音か生の声かの判別がつかないままで聞くガイダンス レジ上の四分割のモニターのどこにも僕がいなくて不安 あと7年死んでも生きるというひとの車でずっと聞くエグザイル 国語便覧が荷台にはためいて正岡子規が空をみている



どうして岡野さんはこんなにも適切な保存ができるんだろうか。 わたしは昨日も冷蔵庫の鶏肉を腐らせてしまったというのに。

特別でも非日常的でもなく、岡野さんが描くのは、限りなく日常の中で行われた出来事だ。


グレゴール・ザムザは蟲になれたのに僕には同じ朝ばかり来る

ある朝、不可解な夢から覚めると、ベッドの中の自分が一匹の虫に変わってしまっているのに気づいたグレゴール・ザムザにとっての奇想天外な非日常*1に対して、わたしたちが迎える朝はあまりに凡庸だ。

でもわたしは、その日常が愛しすぎて愛しすぎて、できれば終わりなき日常を生きていたい。

自分には同じ朝ばかりがくることを嘆きながらも、その嘆きにとどまりつづける自らの日常を愛し抜きたいのだ。


あかねさすIKEAへゆこうふたりして家具を棺のように運ぼう 倒れないようにケーキを持ち運ぶとき人間はわずかに天使


「棺」や「天使」という特別で非日常的な言葉も、岡野さんの手にかかれば「ケーキ」や「IKEA」という枠組みの中にやさしく包み込まれてしまう。むしろ、日常の中にこそ保存されるべきものがひっそりと息をしていることを思い出させてくれる。

岡野さんの短歌は、その素晴らしい動体視力でポケモンマスターのごとく、ぴちぴちの瞬間を捕まえるのだ。

しかもほんの数文字で。

それに比べると、哲学書の喋りすぎなことよ。


世界は、まさにその分節そのものによって、われわれがそれであるところのものの像を、われわれに指し示す。それは、われわれがこの像を細分しこれを分析することができるからではなく、世界が必然的にわれわれのあるがままに、われわれにあらわれるからである。われわれが世界を、それにあるがままにあらわされるのは、事実、われわれが世界をわれわれ自身へ向かって超出することによってである。われわれは、われわれ自身を選ぶことによって、世界を選ぶ。


どんだけおしゃべり。

日々ぐだぐだ論文を書いている身としては、どちらかと言えば詩人よりも哲学者の方が近いから、なんと不器用な世界の保存方法、と笑ってしまう。

でもきっと、哲学者も、詩人も、芸術家も、学者も、世界の「何か」が誰も知らないままに消えてしまわないように、何とか保存しようとしたんじゃなかろうか。

それでもやっぱり、なんで何かが消えることがおそろしいかはわからない。

岡野さんだったら、なんて答えるんだろう。 そう思いながらふと横を見ると、木下龍也さんと共著の新刊のタイトルが目に入り、はっとさせられる。

そうかあ、すべては光のように生まれたはず、だからかもしれない。





玄関の覗き穴から差してくる光のように生まれたはずだ