後ろの風景を置き去りにすれば見える





哲学科研究室の扉を開けたら、後輩が険しい顔をして何かをじっと見ていた。


どうやら誰かが持ってきた雑誌に「ステレオグラム」が載っていて、何が浮かび上がってくるか試していたようだ。


ステレオグラムとは立体図とも言うが、目の焦点をずらしたり合わせたりすることで、立体的に何かを浮かび上がらせるように構成されたものだ。何かの風景を歪ませたようなカラフルな写真の上に「何が見えるかな?」と書いてある。浮かび上がらせるには、なかなかコツがいるようで、後輩が眉間に皺をよせて、雑誌を顔の正面にかざしていた。


もう「見えた」先輩たちが、もっと垂直にしろとか、雑誌をもう少し遠ざけろとか、適当なことを言って笑っている。後輩は神経を研ぎ澄ませて、浮かび上がる何かを見ようとしている。


それでも見えないとぼやく後輩に、細身で背の高い先輩がこう言った。



 「後ろの風景を置き去りにすれば見えるよ。」



突如こぼれ出た詩的な表現に思わず振り返ってしまう。

あまりそういうことを言うタイプの人ではなかったから、どうしたのかと先輩を見つめ返す。


先輩は何食わぬ顔でカップヌードルを啜っていた。







「哲学モメント」と呼んでいる体験がある。


見慣れていたものが、よく分からないものになってしまう体験だ。

世界が異化される体験といってもいい。



さっきまで手にしていたカップ。仲の良い友人の顔。身体に吹き付ける風。

なんだか奇妙なものに思えてくる。心の中がざわざわして、落ち着かない。


ものだけではない。

哲学モメントは、誰かから語られる言葉としてもやってくる。

噛み合わない論理、ぐちゃぐちゃな言い回し、不意にできてしまった詩に現れる。


それは、周りから浮き出ていて、奇妙な形をして、ふるえている。




哲学モメントは突然やってくる。


ぼんやり何かを眺めているとき。

信号待ちをしているとき。

電車に乗り込んだとき。



気がついたら目の前にいる。




捕まると、逃げられない。







ある小学校で「哲学」の授業をした。


「死んだらどうなる?」というテーマで、子どもたちと輪になって対話をする。普段考えないようなことを考えよう、と子どもたちを誘って始まったこの時間では、死んだら天国に行くとか、階段を上るとか、閻魔さまに舌を抜かれるとか、楽しげな、しかしどこかで聞いたことがあるような話がぽんぽんと交わされていた。

子どもたちは興奮気味に自分の考えを話している。


中でも一番嬉しそうに参加していた少年が、生まれ変わりについて話し始めた。


えっと、死んだら魂になって、そいで、ぽーんって出ていって、3ヶ月目の赤ちゃんの耳に入る!そいで、そしたら赤ちゃんは魂が入って、人間になって・・・。


ここまで話して、彼のニコニコした表情と口が止まった。何秒か押し黙ったあと、絞り出すようにつぶやく。



「えっ・・・なんで・・・ひとは生きている・・・?」



哲学モメントだ。


他の子どもたちはハイハイ!と矢継ぎ早に手を挙げて、死んだらどうなるかのアイディアを続けたがっている。


少年だけが、眉間に皺をよせ、目の前の問いを反響させている。







哲学科研究室の午後。


わたしも後輩の横から立体図を見せてもらう。なかなか焦点が合わなくて、浮かび上がってこない。ただじっくりと写真を眺める。写真には、木々のような風景が映っているだけだ。


あきらめて目を離そうとした瞬間、突然、何かが浮かび上がってきた。




それは、風景から浮き出ていて、奇妙な形をして、ふるえている。




カップヌードル醤油味のにおい。埃が立ちこめる椅子。湿気っぽい床。

立体図の木々と同化して、とおくなる。




「船だ!」と、後輩が言った。