犬のようだ





混沌は時に、秩序だってあらわれる。



中学の修学旅行は長崎で、集団で羽田から飛行機に乗る必要があった。わたしの学校は校則が厳しく、自販機を利用することはゆるされなかったから、修学旅行であっても水筒を持参するようにと言われていた。何というナンセンス。


だがよく知られているように、飛行機は液体の持ち込みは制限されている。持ち込めたとしても、中身をきちんと確認して貰わねばならない。


荷物検査場で、わたしは先頭に立っていた。後ろには3クラス分の120人が並んでいる。


係の人が、わたしの水筒を受け取り「中身を確認してもいいですか?」と聞く。はい、と答えると係の人は、ぎゅっと力を入れて水筒の蓋を開け、鼻に近づけスンと匂いを嗅いだ。




垢抜けない15歳のハトムギ茶の匂いを真面目な顔で吸い込む彼を見た担任は、同じように真面目な表情で「後ろの列まで伝言!水筒の蓋を開けて待機!」と指示した。




それまでぼんやりと並んでいた少女たちは、軍隊のように伝言を伝わせながら、水筒の蓋を開け始めた。ぎゅっ、ぎゅっ、カポッ、ぎゅっ、カパッ、きゅう、と、開封の音が響く。




担任の声に反応して顔を上げた係の人は、水筒の蓋を手に待機する少女の長い列を見て、「えっ」とだけ言った。






記憶はそこで途切れている。

修学旅行は楽しかった覚えがあるが、はっきり覚えているのはこれだけだ。







不条理で、ナンセンスにもかかわらず、どこか秩序だっている。なぜか筋が通っている。フランツ・カフカの作品は全てそうだ。


中でも『審判』はすばらしい。銀行員ヨーゼフ・Kは、何も思い当たることがないにもかかわらず、突然逮捕される。罪状を尋ねても、誰も知らない。投獄されることはないが、裁判が迫っている。そのプロセスは、生真面目に秩序だってすすむが、内実は不条理そのものだ。



カフカの作品は、主人公が理不尽な目にあう話、と理解されていることが多いが、全然そんなことはない。理不尽と不条理は違う。かわいそうな主人公に降りかかる悲劇、という構造で理解すると、カフカの面白さは伝わらない(このことについては以前どこかに書いた)。


「理不尽なこと」が起こるのではなく、主人公を含めた登場人物全員が「不条理」なのだ。Kは、正当な理由で怒りを表明したり、動揺したりはしない。なのに、変なことでイライラする。そこじゃねえよ!と読者はみんなつっこむ。全員がボケ。余すことなくボケ。


カフカの作品は、ツッコミが不在なのだ。




世界というものが意味不明でこわかった10代のころ、どこかヒントがあるんじゃないかとカフカを読み漁った。下敷きには、ジャニーズの代わりにカフカの肖像画を挟んでいた。そっちの方が意味不明だった。


だが読めば読むほど世界は、カフカが描いた作品に似ている。


世界もまたボケているからだ。




Kはついに処刑される。このシーンは、本当に、すばらしい。読むべきだ。Kは一度も裁判官に出会わない。罪の内容も知らない。処刑人がKの死を見守る中、彼は「犬のようだ!」と言う。いや、もっと言うことあっただろ、と思わずつぶやいてしまう。


「これを読んでどうすればいいんですか」と昔カフカを勧めた生徒に言われた。知らん。カフカに夢中だった高校のときは、とにかくこれを解釈しようと必死だった。プラハまで行って、生家を見て、不相応な研究書を神保町でたくさん買い込んだ。


だが彼の作品は、意味を求める試みが、全て失敗するようにできている。


だから、ただツッコめばいいんじゃないかと思う。「なんでだよ!」とか「終わりかい!」とか。さまぁ〜ずの三村みたいな感じで。




カフカは難解なイメージがあるが、そんなことはない。ボケているだけだ。また、一見秩序だっているから、おかしいと思えないときもある。でも、カフカはツッコミを待っている。それは世界もきっと同じだ。




120人分の水筒の匂いを嗅ぎつづけた荷物検査場の人。もしかしたら最後の方で「もうええわ!」と言ったかもしれない。