
生きているだけで、メールは届く。
仕事のメール、事務処理のメール、見積もりのメール、メンテナンス情報のメール。どれも「社会的」なメールだ。
だが、たまにスリリングなメールが届く。なんちゃら弁護士事務所、という送り先のそれは、わたしに様々なことを告げている。お前はこのサイトに登録している、金を払わないと許されない。弁護士事務所にしては高圧的で、簡素な文面。よくある迷惑メールだ。いや、知らんし、と思いながらつるつるとスクロールし、戻るボタンを押そうとしたとき、末尾の文章が目に入った。
「以上、身に覚えのない場合は、ご対応ください。」
ひゃ、とわたしは声をもらす。
「心当たりのない場合はこのメールを破棄してください」という文面は見たことがあるが、身に覚えのない場合こそ対応せよ、というのは新しい。詩のようなこの言葉は、彼らの世界の外側にいるわたしの首をつかんで、無理矢理に引き寄せる暴力性をもっている。
別の日、またスリリングなメールが届く。どうしても遺産を受け取ってほしい、というお願いのメールだ。もちろん相手は見知らぬ人で、受け取りには下記のリンクをクリック、というおきまりの「迷惑メール文体」を展開している。お金を受け取るには、まずはこのくらいの金額を振り込んで下さい、という流れだろう。だが、わたしは迷惑メールの手口にはあまり関心はない。
おお、と思ったのはこの言葉だ。
「いきなりのメール失礼します。3億5000万円を受け取ってもらえませんか?」
詩的な出だしに、昂奮する。
身に覚えがない場合はご対応ください。いきなりのメール失礼します、3億5000万円を受け取ってもらえませんか。
見知らぬ他者が、突然距離をつめてくるこの強引さ。
この不条理性。この暴力。
藤岡拓太郎というギャグ漫画家がいる。
彼の作品の秀逸さは、筆舌に尽くしがたいものがあるが、中でも気になるのは、見知らぬ他者の距離感の異常さだ
彼の作品には、関係ないと思っていた他なるものが、突然ぬるりとわたしの中に入ってくる不条理さがある。馴れ馴れしいおじさん、という生やさしいものではない。それとは別格の不気味さである。
こんな短歌も思い出す。
「ばら寿司を作ったけれど食べますか?FF外から失礼します」(飯田和馬)
「FF外」とは、twitterで使用される言葉で、フォロー・フォロワー関係にない場から話しかけるということを表している。この言葉から感じられるのは、このひとは話しかけた相手に対してほとんど面識がないだろうこと、全き他者である、ということである。
「FF外から失礼します」という他人の手触りと礼儀、そして「ばら寿司作ったけれど食べますか?」という生っぽさと、異様な近さ。
カフェでひとり作業していたら、見知らぬひとがわたしの顔をのぞきこんでいたときのような、気持ち悪さと、不安。
このひとは既に、わたしの家の扉の前まで来ているだろう。
できたてのばら寿司を持って。
ばら寿司は、まだあたたかい。
こうした言葉や他者に出会うとき。
知っている世界がべろりとめくれて、見たことのない姿が露わになってしまう。見知らぬものがすぐそこに迫ってきていて、わたしは逃げられない。
気持ち悪くて、得体が知れなくて、目が離せない。
だが、と同時に思う。
他者との適切な距離って、一体何なのだろうか。
見知らぬ世界にめまいを感じながら、わたしは問いを反響させる。
また、今日もメールが届く。
知っている世界からのメールと、知らない世界からのメールが。
例の弁護士事務所から、また何かが届いている。ひらくと、メールはこのように始まっていた。
「もう、3億5000万円は振り込んでいます。」
もう、振り込んでいるのかあ。
世界がまたもう一枚べろりとめくれて、もう目が離せない。