ipadを叩き割れ


コンピュータはアホである。

ケープタウン出身のプア・ホワイトであるDie Antwoordの「Baby's on Fire」という曲がかっこよい*1ので、歌詞を知りたいなと思った。

「Baby's onFire 訳」と検索すると、google翻訳が同時に起動してしまい、目の前にデカデカと次のような画面が表示された。



Baby's on fire

赤ちゃんが燃えています。



こわすぎ。

最高にエマージェンシーな状況を丁寧語でお知らせしてくださる。 「次、停まります」「ドアが開きます」みたいなノリで。

コンピュータはアホである。

承認と尊重の倫理学、と打ち込むと「商人と村長の倫理学」と変換してくる。 倫理学という単語から類推してほしい。 もしくは、倫理学を研究し多くの論文やノートを打ち込んでいるというわたしの歴史性から。

10月に松田雄馬さんという人工知能の研究者の方のイベントにファシリテーターとしてお呼ばれした。 タイトルは「アルゴリズムは希望を生成するか?」。 http://daisukikai.org/ ワーイ、かっこいい! 松田さんが書かれた『人工知能の哲学』、めちゃくちゃ分かりやすくかつ面白いのでぜひみんな読むべき。すべての章にまとめがついているのも嬉しいし、明快で誠実な文体で、人工知能がよくわからなかったわたしでもどっぷりはまった。

イベントの前半部分、松田さんの講演があってそれもとても面白い。 ユーモラスな語り口に引き込まれながら聞いていたが、その中で印象的な言葉があった。



「機械は、想定外に遭遇した瞬間、生物っぽさを失うんです」 。


人間の代替をする機械。人間のふりをする機械。 だが、彼らは失敗したり、不条理な状況に直面した際、動じることはない。

予想不可能、想定外、これらは『人工知能の哲学』のキーワードになっていくので、ぜひ気になった人は読んでほしいのだが、その通りだなと思う。 赤ちゃんが燃えていても、機械はすまし顔である。 ミスしたり失敗したりしても、何食わぬ顔でいる。

* 想定不可能なことに対して、人間はあまりにも脆弱である。

むかし、教会でクラシックの音楽会があったとき、突如わたしのipadが暴走し、爆音で「あの素晴らしい愛をもう一度」が流れたことがあった。

止めようにも画面に「ipadは使用できません」という字が表示され言うことを聞いてくれない。

あのとき同じ花を見て 美しいと言ったふたりの 心と心が いまはもう通わない あの素晴らしい愛をもう一度



数時間前までは、おまえを通して論文を読み、おまえに語りかけるように文字を打ち込んでいたのに、こんなにも簡単に心が通わなくなってしまうのか。 何がおまえを変えてしまったのか。

何とか収まってくれたが、かなりダサめにうろたえた。 クールな哲学者の國分功一郎さんだってきっとこのまま止まらなければipadを膝で叩き割っていたことだろう。 だがこれが「生物っぽさ」である。 想定不可能な現実に、恐れ、おののき、うろたえ、バカみたいに焦りまくる。 これが人間の崇高さなのか、はたまたみじめさなのか、どう捉えていいのかは分からない。


学校教育法 第22条 幼稚園は[・・・]幼児の健やかな成長のために適当な(  )を与えて、その心身の発達を助長することを目的とする。



以前、授業で出された空欄に何が入るでしょうという問いに対して、真面目そうな女子が「え、刺激?」と答えていた。 刺激的な幼稚園、すてきだあ。 正解は「環境」なんですけどね。

人間は適当な刺激を与えた方が成長する。 この直観はみんな共有している。でもやっぱり、想定可能な世界で、安心に、安全に、快適に暮らしたい。そんな生活を欲求している。 なるべくうろたえずに生きたい。落ち着いて安心したい。 コンピュータみたいに、しれっとやり過ごしたい。

全てが安心で快適、うろたえることは何もない暮らし。 その結果つくられていったのは、チェーン店や機能的な団地で構成された単一で無表情な町並みである。これについては、多くの都市計画者の方が嘆いていることだろう。

今回の人工知能のイベントは3回目で、2回目は歌人の穂村弘さんがゲストだった。 そこでも私は幸いながらファシリテーターをやらせてもらったのだが、光栄すぎてほとんど記憶喪失。録音とかしとけばよかったな。 http://daisukikai.org/?p=565

うろおぼえな記憶をたどると、穂村弘さんに、参加者としていらした都市計画者の蓑原敬さんが、画一化していくまちなみについてどう思うかを問うていた。 そのとき、穂村さんは5秒ほど黙ったあと、のんびりつぶやいた。

「でもぼく、デニーズとか好きだしなあ。」


単一で逃げ場のない退屈な町並みにわたしたちは憤りながらも、想定可能なチェーン店の安定の享受をやめられない。

わたしだって現にいまこの文章をサンマルクで書いている。けなげにスタンプも溜めたおかげでアイスコーヒー無料で飲めた。

これは想定不可能や予想外のプレゼントではない。計画的に、雨の日にサンマルクに通った論理的帰結である。雨の日にサンマルク行くとスタンプ二回押してもらえるからね。

だからアイスコーヒーお待たせしました、と出されても、コンピュータみたいに「当然ですけど?」って顔をして受け取るのである。


穂村さんは7月のイベントだったけど、10月の松田さんのイベントにて、同じく参加者であると同時に、3月に開催されたイベントのゲストでもあった宮台真司さんも話し出す。 最近の若者に、どうして恋愛しないのと問うと「コスパが悪いんでぇ」とか「リスクマネジメント的にぃ」とか抜かしやがるそうだ。


「それこそ自動機械、没主体化した存在が溢れてるんで、おまえらさあ、アルゴリズムも大概にしろこの野郎、って思うわけです」。


これについては新刊『どうしたら愛しあえるの』に詳しく書いてあるそうな。 面白そうなのでいずれ読も。

揺さぶられることを嫌う人々。うろたえ、傷つくことから逃げる若者。 ヘタレだと思いながらも、よくわかる。 想定可能で安全なあたたかい布団の中で、永遠にまどろんでいたい。 デニーズやサイゼリヤで、既知で不変な味に安堵したい。 だがその先にある未来は、きっと人間としての死なんだろう。



5年前くらいのアメトークで日村が憤りながら話していたこと。 よくドッキリにかかる日村。オンエアされると業界関係者がドッキリを疑ってくることがあるらしく、やめてくれと主張していた。

アイドルが突然持ってくる手作りのシュークリーム(ワサビ入り)。 「あれドッキリって分かってるでしょ、なんで食べんの?」みたいなイジり方をされるとのこと。 日村は正直ドッキリと気づいていることは数多あると言う。だが、と言葉を続ける。 これは「ドッキリだな」と気づいていたとしても、何が起こるかは分からない、と。 周りの芸人たちもそうそう、と笑っている。日村は喧噪の中訴えている。

「分かってたとしても、ドッキリで体験してることはリアルなんだから! 全て本当だから!」


わたしはこの日村が大好きである。 この発言全てに、人生が詰まっている感じがする。

人生とはドッキリのようなものだと思う。 想定不可能な形で襲いかかってくることもあれば、あこれこうなるんだな、と分かることもある。 でもどっちにしろ、完璧に把握することはできない。

これはワサビが入っている、と完全に認識した上でも、身体を貫く痛みはリアルそのものである。その体験そのものは、この今を生きるわたしにとって、どこまでも「本物」だ。 どんなに想定可能だったとしても、身体に走る苦しみや喜びに揺さぶられてしまう。 激しくうろたえ、汗をかき、ゆらいでしまう。

二回目のイベントで、そんな文脈とはまったく別に、穂村さんから教えてもらった短歌がある。


何もない街での誰かの聖域であるだろう雨のマクドナルドは(まるやま)


チェーン店、画一化、安定の権化であるマクドナルド。 でもそんなマクドナルドですら、誰かにとってかけがえのない、いとおしい聖域になってしまう。

どんなに想定可能で反復可能な世界に調整しても、わたしたちの一回だけの生が予測不可能な形で交錯してしまう。

なんて複雑なんだ、世界。





夏、沖縄に哲学対話の仕事をしに出張した際、空き時間に一人でバーガーキングに入った。 あとで、その時間にソーキそばを堪能していた人たちにバカにされた。

旅先でチェーン店に入ることの愚かさ。未知との出会いに心躍らせるべき旅で、安定安心を求めるくだらなさよ。だがわたしが求めるのは安全なチェーン店での一息である。


見たことのある店で、何百回も飲んだコーラをオーダーする。 お待たせしました、と店員さんがドンとコーラを置いた。


でかっ



思わず声がもれて、動揺した。 目の前には、見たことのないサイズの巨大なコーラがきらきらしている。 何これ、沖縄サイズ?

ああ。 コンピュータにはまだなれそうにないかも。